研究者インタビュー

イヌの脳腫瘍におけるがん幹細胞の由来と特性の研究

岸本拓也 氏    東京大学農学生命科学研究科 獣医病理学 博士課程1年
内田和幸 准教授  東京大学農学生命科学研究科 獣医病理学

   

獣医病理学とは、動物の疾患の発生機序について、主に形態学的な手法に基づいて研究する分野です。今回は、「イヌの脳腫瘍におけるがん幹細胞」を研究テーマとする岸本拓也氏(東京大学農学生命科学研究科 獣医病理学 博士課程1年)と、指導教官である内田和幸先生(東京大学農学生命科学研究科 獣医病理学 准教授)にインタビューを行い、イヌを研究対象とする利点や、免疫染色における抗体の活用例などについて伺いました。

 

イヌの脳腫瘍のがん幹細胞の由来を明らかにする

 
――現在の研究テーマを教えてください。

岸本氏:
 イヌの脳腫瘍におけるがん幹細胞を研究しています。脳腫瘍にはいくつかの種類がありますが、現在は特に、髄鞘形成に関与する乏突起膠細胞(オリゴデンドロサイト: oligodendrocyte)の腫瘍である乏突起膠細胞腫(oligodendroglioma)を研究しています。

 乏突起膠細胞腫の由来、つまりどの細胞ががん化したものなのか、現在はわかっていません。神経幹細胞ががん化したものなのか、乏突起膠細胞の前駆細胞ががん化したものなのか、なぜがん化を引き起こすのか(図1)。これらを明らかにして、治療法の開発につなげることを目標にしています。


図1 イヌの乏突起膠細胞腫の由来は神経幹細胞か、乏突起膠細胞の前駆細胞か
――乏突起膠細胞腫を研究するにあたり、なぜイヌを用いているのでしょうか。

岸本氏:
 乏突起膠細胞腫の発生頻度は動物種差が大きく、イヌのなかでもフレンチ・ブルドッグに好発することが最近わかってきました。何らかの遺伝的背景をもっていると考えられており、発生原因を特定することができれば、ヒトにも応用できると期待されています。

――なぜ脳腫瘍を研究テーマに選んだのでしょうか。

岸本氏:
 脳腫瘍の実態があまり解明されていないからです。イヌに関しては、乳腺腫瘍の発生頻度が比較的高く、研究も多くなされています。しかし脳腫瘍は発生頻度が低く、研究が進んでいません。修士課程までは日本獣医生命科学大学獣医学部に所属していたのですが、脳腫瘍のサンプルは1年間に1個入手できるかどうかという状況でした。現在の研究室では年間約30個のサンプルを入手でき、脳腫瘍の培養細胞が維持されています。in vivo , in vitro、そして病理と、さまざまな系で研究を行っています。

 

治療アプローチががん細胞と異なるがん幹細胞

 
――研究テーマにある「がん幹細胞」とは何でしょうか。

岸本氏:
  がん細胞に分化する能力と、自分自身をコピーできる細胞です。これまで、がん組織は1種類のがん細胞が集まったものだといわれていました。しかし最近では、幹細胞のような役目をもつ細胞(がん幹細胞)、がん幹細胞から分化したがん前駆細胞、さらに分化したがん細胞の集まったものが腫瘍ではないかと考えられています(図2)。


図2 がん組織(腫瘍)はがん幹細胞、がん前駆細胞、がん細胞が集合したものとする説
――がん細胞とがん幹細胞では、治療アプローチは違うのでしょうか。

岸本氏:
 腫瘍を外科的に切除するのであれば問題ありません。しかし、脳腫瘍の外科手術は困難なので、放射線や抗がん剤を用いた治療を行います。これらの治療法は、がん細胞は増殖能が高いという特徴を利用したものです。ところが、がん幹細胞は増殖能が低く、また放射線や抗がん剤が届きにくい微小環境(ニッチ)に存在すると考えられています。つまり、放射線治療や抗がん剤治療では、がん細胞は死滅しても、それらに抵抗性があるがん幹細胞は残存します。そしてがん幹細胞が再び増殖、分化して、がんが再発します(図3)。

そこで、がん幹細胞を標的とする薬の開発が求められています。現在は、抗体による免疫染色などを用いて、がん幹細胞の特性を調べています(図4)。
 


図3 がん幹細胞(赤)とがん細胞(青)それぞれを標的とする治療法


図4 フレンチ・ブルドッグの乏突起膠細胞腫の免疫染色

 

イヌの研究ではヒトやマウスの抗体を使う

 
――抗体のお話が出ましたが、イヌの抗体は一般に入手できるのでしょうか。

岸本氏:
 基本的にはヒトやマウスの抗体を使います。イヌの場合、獣医病理による知見が蓄積しているので、過去の知見を参考にしながら免疫染色を行います。本来はヒトやマウス向けの抗体を使い、まずはイヌの抗原も認識するかどうかの確認から始めます。もちろん、ヒトやマウスの抗体では認識しない場合があります。そのときにはオーダーメイドすることがあります。

――博士課程ではどこまでを目標にしているのでしょうか。

岸本氏:
 まずは、乏突起膠細胞腫を好発するフレンチ・ブルドッグにどのような遺伝子変異があるのか、あるとすればヒトと同様の変異があるのか明らかにすることを考えています。次に、乏突起膠細胞腫がどの細胞に由来するのか解明を目指します。さらに、乏突起膠細胞腫にもがん幹細胞は存在するのか、存在するならばどのような性質をもつのか、明らかにしたいと考えています。

 また、それらを研究するうえで、乏突起膠細胞腫のがん幹細胞に特異的な抗原の存在を確認できれば、それを標的とする薬剤の探索も考えています。 

 

犬種特異性から遺伝的背景を探る

 
――フレンチ・ブルドッグで乏突起膠細胞腫が好発するのはなぜでしょうか。

内田准教授:
 一時的に日本でフレンチ・ブルドッグがブームになったときに、限られた数の親から大量に生まれたことで近交係数が高くなったことが理由だと考えられます。

 イヌは犬種ごとに顔などがよく似ており、近交係数が高いことを意味します。そのため犬種特異的な疾患が発生しやすいのです。フレンチ・ブルドッグの場合、乏突起膠細胞腫を好発する遺伝的背景をもっていると考えられます。もし、何らかの遺伝子変異があれば、その遺伝子の機能を調整したり、カスケードの下流に作用する薬を投与すれば、がんの治療や症状の緩和につながります。遺伝性疾患の場合、機序が明らかになれば治療ストラテジーが立てやすく、モデル性が高いといえます。

 乏突起膠細胞腫の細胞株が当研究室にはあるので、培養系でがん幹細胞の定性を目指しています。がん幹細胞の標的薬を開発するために、まずはがん幹細胞の分子マーカーを探索する必要があります。

 

イヌ抗体の作製委託は増えるかもしれない

――分子マーカーを探索する際、免疫染色ではマウスやヒトの抗体を用いているとのことでした。

内田准教授:
 抗原の配列(エピトープ)が同一または類似していれば、種交差によってマウスやヒトの抗体でもイヌ組織の抗原を認識します。ところが、種特異性が高い抗体や、エピトープのアミノ酸配列が異なると、イヌには使えない場合があります。そのときには抗体のオーダーメイドを検討します。

 イヌは全ゲノム解析されているので、目標とする抗原のアミノ酸配列はわかっています。それをもとに抗体作製を委託します。シグマ アルドリッチ ジャパンには、以前に筋肉組織の抗原を認識する抗体の作製を委託しましたが、うまく機能しました。料金もリーズナブルでした。

――今後、抗体作製の委託は増えていくのでしょうか。  

内田准教授:
 増えるのかもしれません。市販されているマウスやヒトの抗体の場合、交差性が90数パーセントというものが多いのですが、残りの数パーセントに抗原性の高いエピトープが含まれていると抗体は認識しません。それなら、イヌの抗体を作製したほうがデータの説得力が増します。

 今では、他の動物種の研究から、神経膠腫(グリオーマ: glioma)形成の分子カスケードそのものは明らかになっているものが多いのです。腫瘍内で、あるタンパク質が存在しているのかを調べるときには、抗体を使った免疫染色が一番有効なツールです。フレンチ・ブルドッグの遺伝的背景の解析と合わせれば、がん幹細胞の特性を明らかにできると期待されます。

 また、がん幹細胞の標的薬の開発を見据えたときには、細胞表面に存在するタンパク質が標的になるでしょう。その点においても、抗体を使った研究は今後も増えると予想されます。

 

比較病理からヒトの疾患研究でブレイクスルーを目指す

――動物実験ではマウスを用いることが多いのですが、イヌを用いる利点は何でしょうか。

内田准教授:
 マウスよりもイヌのほうが、ヒトへの外挿性が高いと考えられているためです。また、マウスで脳腫瘍を再現する場合、ヒトなどに由来する腫瘍を注入するので、実験結果が細胞株の性質に依存する場合があります。その点、当研究室では自然発生した脳腫瘍のサンプルを扱うことができるので、より自然な状態で調べることができるのも利点のひとつです。

 また、イヌでは獣医療が確立しているので、臨床と病理の知見が多く存在します。当研究室では培養細胞を用いたin vitroの実験も行うことができ、多様な視点から研究できるのが強みです。

――乏突起膠細胞腫はヒトでも発生するのでしょうか。

内田准教授:
 ヒトの場合は星状膠細胞(アストロサイト: astrocyte)由来の腫瘍が多く、乏突起膠細胞腫は比較的少数です。だからこそ、ヒトからは得られにくい知見をイヌから得ることができます。イヌの知見をヒトに応用できると期待されています。

――イヌ以外でも、動物を扱うことでヒトへ応用できる可能性はあるのでしょうか。

内田准教授:
 もちろんです。例えば、アルツハイマー病はヒト特有の疾患であり、アルツハイマー病の病態を再現する動物はいないと考えられていました。ところが最近、ネコの脳ではβアミロイドの沈着、高リン酸化タウの蓄積、それによる神経原線維変化が起きることを当研究室が明らかにしました。これらはヒトのアルツハイマー病と同じ現象です。さらに、ネコのβアミロイドの配列は、マウスやラットなどの他の動物とは異なることも判明しました。

 アルツハイマー病は、ヒトでは深刻な疾患であり、研究が進められています。しかし、ヒトだけを対象にしていてはわからないこともあります。動物種差という観点から比較病理的にアプローチすることで、ヒトの疾患研究でブレイクスルーできる可能性を獣医学は秘めていると思います。

――ありがとうございました。

 

プロフィール(写真左から)

東京大学農学生命科学研究科 獣医病理学

写真右:内田和幸 准教授
写真左:岸本拓也 氏 (博士課程1年)